鼓動集鑑賞 (前月以前)

俳句と鑑賞 (堀口俊一)
 2017年11月号より

凛として老ゆる厳しさ敬老日    福田知津子
 評者も老いの途次にあるが、「凛として老ゆる」境地には達していない。
日々、何とか老いの生活になお伴っている仕事、即ち学術研究と趣味の俳句をこなして生きている。

桐一葉施設の友に便りせむ      米田 一子
 老齢の仲間には施設に入っている友達も少なくないだろう。「桐一葉」の候となっては、それらの友の動静が想いやられる。便りを出して見ようという気になった。

 2017年9月号より 

老いの身の生きかへりたる昼寝かな    黒川佐規子

 昼寝の覚めたあと、生き返った気分になるのは、ことに老人の誰し もが日常経験することだろう。まさに午睡の効用である。

青空を貯金したきや梅雨真近       杉本 文子

「青空を貯金したきや」とは意表をつく面白い表現だ。ただ、今年は長梅雨らしいという予報があれば、或は梅雨自体が嫌いというのであればぴったりした表現である。

 2017年7月号より
 妣折りし紙の雛を飾りけり     米田 一子

 亡くなった母が折った紙雛を折からの雛の節句に飾った。簡明な句だが、「妣」、「飾りけり」という言葉使いに感動が引き起こされる。

 田植終う泥のタオルや昼の宴   南  洋子

 田植が終わった。タオルは泥まみれになったことよ。しかし今は楽しい昼餉の宴である。田植を終えた安堵感が活写されている。

 2017年5月号より

夫のオペ待つ間の長し月朧        岸本美知子

 ご主人の手術の終わるの待っている奥さんにとって、その時間は長く感じられる。折から窓外は朧月夜だ。待っている妻の心境を反映しているようだ。

奥入瀬の水が水押す雪解かな    中川チエ子

 名勝奥入瀬を詠んだ句はたくさんありますが、その雪解の情景を詠んだ例句は手元の歳時記では見当たりません。チエ子さんの「水が水押す」と詠んだところは巧みです。

 2017年3月号より
 風邪に臥す枕辺句誌と体温計     岸本美知子

 「体温計」を入れる言葉としての作句。風邪に臥せる身ながら、枕辺に好きな俳句の雑誌と体温計を配して、ご自分の生活情景を客観描写した。

笑ひとふ薬をのみて年越さむ   山口 暁子

 「笑い」が健康に良い作用をすることは医学的にも論じられている。折から年越しの時、「笑ひとふ薬を」飲んでよき新年を迎えたいという気持ちが伺われる。

 2017年1月号より 

何となくいつも晴天文化の日       黒川佐規子

 文化の日が明治節であった時から、この日が雨天であったことはないと、子供心に聞かされていた。この句では、そのことを「何となく」と巧みに詠んでいる。

芋の露宇宙を写し美しき         米田 一子

 芋の露には飯田蛇笏の名句があるが、一子さんの句は「宇宙を写し」と詠んで、スケールが大きい。また「う」音が続き、調べがよい。

 2016年11月号より 
妣と考と妹も置く夏の雲   山口 暁子

 夏の雲を見上げて、そこに亡き母と父、それに妹も雲となって、いまは天上に在す。霊を夏雲の生命力に託した。

 もてなしは噴き出すミスト盆の寺    岸本美知子

 ミストを涼気として噴き出す光景は駅構内でみかける。お寺でも見られるとはハイカラになってきたものだ。

2016年9月号より 
 鮎の腸おちょぼ口して食べにけり     米田 一子

 鮎でも腸となると、通は別として、ちょっと躊躇する人もあろう。このような場合、「おちょぼ口」が叶う。 

篝火の女鵜匠を煌めかす         南  洋子

 女性の鵜匠が活躍していることは報道されている。「女鵜匠」であるからこそ、篝火によって一層煌いて見える。

 2016年7月号より

国破れ母の菜飯で生き伸びし       山口 暁子

 前号の句からも、戦後の引揚げの時の回想であろう。淡々と詠まれ た中に感懐が込められている。

 遠山を見遣り又踏む麦畑         今井きよみ

 麦踏の人がちょっと一休みに、「遠山を見遣り」また 麦踏を続けてゆく。大景のなかへ人の点綴。

 2016年5月号より

春めくやチンチン電車の音かるし     黒川佐規子

 大阪で「チンチン電車」と親しまれている路面電車を句に詠み込んで、「音かるし」と春めく感じを出した。

百の絵馬百の願ひや春立てり       中川チエ子

 上五、中七の「絵馬」と「願ひ」に、「百」を重ねたリズムが何とも快い。下五の「立春」にも適っている。

  2016年3月号より
 一湾の空はパノラマ寒北斗     岸本美知子

 一湾の空に冬の星がパノラマのように広がって輝き、その中に一段と北斗七星が目立つ。「空はパノラマ」が巧み。

 包丁の冴え大根の桂剥き     米田 一子

 「桂剥き」とは筒切の大根などを帯状に薄く剥くことを いうが、この言葉を俳句で使って巧みに収めた。

 2016年1月号より

年金のせめてもの奢り新走り  松尾 謙三

 年金が入った。それによって「せめてもの奢り」に「新走り」に当てた。新酒でなく「新走り」と詠んだのが巧み。

鳥語きく空一杯のいわし雲     黒川佐規子

 「いわし雲」とあるから、「鳥語」は秋の小鳥の囀りであろう。聴覚と視覚の感覚の中に秋を満喫している詠者。

 2015年11月号より

茄子漬けの紫紺が旨し大和粥       中川チエ子

 茄子漬けは味もさることながら、見た目の紫紺は美しい。それを「紫紺が旨し」として、「大和粥」でうまく収めた。

一叢に丈の高低曼珠沙華         中山あけみ

 曼珠沙華の一叢に丈の高低が見られるという素直な観察を通して、情趣ある句となっている。

  2015年9月号より

噴水のマイナスイオン浴びて快     福田知津子

 「マイナスイオン」という専門用語は日常的にも用いられるが、俳句ではこの句で初めて出合った。

かき氷たのしき音をつみ上げて     松尾 謙三

 かき氷は近頃また人気が出てきた。かかれた氷が積み重なってゆくが「たのしき音をつみ上げて」が巧み。

 2015年7月号より

 まづ母に青き香りの豆ごはん   藪上 正子

まず母(妣かも)に豆ごはんを差し上げた。その豆ごはんを「青き香 りの」と詠みおろして、余情が引く。

裸婦像をふんはり包み春の雪    米田 一子

 春の雪なればこそ「ふんはり」であろう。原句は「包む春の雪」と 続くが、一旦切って、間を置いては如何。
 2015年5月号より
二上山をそこに望みて探梅行   黒川佐規子
 探梅の場所の位置が「二上山をそこに望みて」で明らかになり、
     探 梅行の詠者のときめきを感じる。
風光る音なくショール滑り落つ   中山あけみ
 「ショールが滑り落」ちたのは、風そのものより、
風を光らせている見えない光のためのように思える。
   2015年3月号より

   百羅漢百の顔もて春を待つ    太田雅人
  それぞれ異なった顔を持つ多くの阿羅漢が、それぞれの表情で
「春を待っ」ている様が彷彿する。
がっしりと肩組み山の眠りけり      市岡まさ子

    近頃テレビで観る冬山が、この句に詠まれているような「がっしりと肩組」んだ姿をしている。巧みな表現だ。

    2015年1月号より
 断捨離を決めて一人の年の暮     水野 茂子

持ち物の増えて行く今の世に、「断捨離」が唱道されている。年の暮ともなって一人身の周りをさっぱりしたい。

 小菊咲く中の写真の若かりし      黒川佐規子

アルバムをひろげると、「小菊咲く中」に写っている自分の姿。過ぎし時の彼方の自分も「若かりし」と感慨。
   2014年11月号より
 日々育つ曾孫の笑顔天高し      石本けん一

「脈」の最年長者。他に「孫に手を曳かれて妻の墓参り」「将棋負けて孫を称ふる敬老日」の句も。百寿を祝します。
 夕の雨少し残暑を沈めけり    福田知津子

 夕暮れに降った雨が「少し残暑を沈めけり」と淡々と、しかも、感動の助動詞で収め詠んだところがよい。

    2014年9月号より
 炎天下泰然と野の地蔵かな     藪上 正子

 野地蔵が炎天の下、「泰然と」した姿で立ってまします。この情景をそのまま詠んで味わいのある一句をなす。

 離るる子思ひて炊くや豆ごはん   南  洋子

 「離るる子」とはいろいろな事情が想像されるが、ともかく「思ひて」豆ごはんを焚いたと淡々と詠んだ。

 十薬や疎まれもして凛と咲く    白杉みすき

 「毒痛み」が転じた「ドクダミ」と称される十薬は内服、外用ともに薬効がある。凛として咲き誇って欲しい。

   2014年7月号より

散歩して立ち読みもして日永かな     児島 二介

 同じ散歩でも、日永の散歩はゆったりした気分がある。それが本屋にも寄って「立ち読み」のゆとりがある。

地虫にも五分の魂動き出す        平田 淑子

 一寸の虫を地虫に置き換えて、「地虫にも五分の魂」と詠んだところ、巧みである。

農水路音立て流れゆく落花        奥村 京子

 勢いよく音を立てている農水路を落花が流れてゆく様が、すなおに詠まれ、農水路という流れが効いている。

 2014年5月号より
 本年も梅に始まる花行脚      児島 二介

 花の愛好者二介さんの句は「梅に始まる」。これから一年、花を求めてのお出かけ「花行脚」が待つ。

 春塵と言へぬ大気の濁りかな       白杉みすき

近頃の空を「霾る気配どことなく」と評者は詠んだが、詠者の場合は「春塵と言へぬ大気の濁り」と巧みに詠んだ。

 青き踏む地球ふくらむ未来かな      市岡まさ子

 「地球ふくらむ未来」とは、冒頭の「青き踏む」に応えて、明るい気分の溢れる表現であると思う。

     2014年3月号より
 顔洗ふ猫に時雨の予感かな        児島 二介

 猫が「顔洗ふ」様な仕草をよく見せるが、諺らしい言い回しがあるのかもと辞典を調べたが、みつからなかった。しかし時雨の予感がしたと詠んだのには興味を感じた。

 着ぶくれて鯔背な男影うすし        平田 淑子

 「鯔背」は「いなせ」で、「鯔背な男」も「着ぶくれて」いては影がうすいことであるわいと皮肉った。また諧謔も効いている。

 いつ筆が折れるやしれぬ日記買ふ    福田知津子

 何十年と日記を続けている評者にとっても、日記買いに際してこの句のような危惧を抱く人がいることはよく分る。日記の果つる一年が無事過ぎることを祈る。

    2014年1月号より

栗をむく父の形見の肥後の守       市岡まさ子

 甘栗は栗カットでたやすく剥けるが、普通の栗は刃物を使い怪我することがある。詠者はナイフを用いたが、それが「父の形見の肥後の守」であった。亡父を懐かしむ心情。

八十は老の序の口金木犀         松尾 謙三

 九十、百歳の長寿者が増えて来た時代、まこと「八十は老の序の口」である。「金木犀」を配して八十路の目出度さの気分を醸し出した。

落葉掃きこれ老いらくの日課かな     條  益夫

 老いの日課としての落葉掃き。これは身体の健康のためにも、精神の健康のためにもなる。季節に伴う心身の健康に役立つ事象はできるだけ利用したい。

    2013年11月号より

山鳩の声しみじみと盆の朝        杉本 文子

 平生は特に気にも留めていない山鳩の声が、盆の朝に、「しみじみ」と聞こえたという。盆の朝なればこそ、そのように聞こえたのだろう。人の心の状態は微妙である。

老いてなほ道半ばなり夏期講座      條  益夫

百寿者も増えている長寿の世となった現在、老いたといっても定年後、間もなくの歳では「なほ道半ば」である。「夏期講座」で勉強する意気込みを称賛する。

断・捨・離もできず今年の更衣      石橋 玲子

 断捨離をなるほどとは思うが、選者のように何かと資料を必要とする生活を送っている者には捨てがたいものに囲まれて暮らしている。衣類などは別だが。

    2013年9月号より

葛咲くや昔くじらの見張台        滝本 卓宏

 詠者は和歌山の太地町在。『西国三十三所名所図会』に熊野浦の鯨とりが描かれており、くじらの見張台が残っているのだろう。見晴しのよい日当に咲く葛を配して詠んだ。

黄菖蒲のゴッホの色に群生す       太田 雅人

 ゴッホの絵は、この句のように「ゴッホの黄」ともいわれる特徴があり、「奔放に連翹ゴッホの黄を放つ」(諸岡八風)の句もある。本句もこれに遜色がない。

梅雨明やあべのハルカス聳えをり     工原建太郎

 一昨日(8月3日)母校で同門会があって、「あべのハルカス」の高さを仰いだ。梅雨明けに聳えるこの建物は梅田の「グランフロント大阪」と共に大阪の新風景である。

    2013年7月号より

根の国へ白き思ひや花吹雪        藪上 正子

 「根の国」は日本古代の他界観の一つで、黄泉のこと。「白き思ひ」は微妙な表現だが、「白い」は明るい、と解しておこう。花吹雪の情景からの連想だろうか。

色鉛筆空に飛ばせば春の虹        石橋 玲子

 春の虹は初虹とも云われ消えやすい。クレパスでなく、色鉛筆が春の虹にはよく合っている気がする。また、「空に飛ばせば」という表現が巧みである。

桜餅道明寺粉の一くさり         黒川佐規子

 櫻餅に用いられている「道明寺粉」についての「一くさり」。私も『ウィキペディア』で調べて初めて知った。「一くさり」と簡潔に収めたところ、余韻がある。

    2013年5月号より

春立つや仁王の顔もゆるみをり      太田 雅人

 何時もいかめしい形相を呈して寺の門に立つ仁王の顔だが、折からの立春にはゆるんで見えたという作者の心持がよく投影されている。

手作りのパンの香溢つる春の朝      湊 千代子

 春の朝、手作りのパンの香が食卓に溢ちているとは清々しい雰囲気である。手作りの焼きたてのパンなればこそ、香ばしいと思われる。

穴を出て蛇神木を登りけり        米田 一子

 秋に穴に入った蛇は春に穴を出る。ともに季題になっている。その穴を出た蛇が「神木を登」ってゆくところを見たとは興味ある景である。

    2013年3月号より

さくさくと歯当り楽し冬林檎       児島 二介

 「冬林檎」は「冬になるまで貯蔵し、店頭に売り出される林檎」(新編「月別季寄せ」)。今まで知らなかったが、そういえば現在私も賞味しており、この句に首肯した。

抗癌剤止めて生きると賀状来る    中澤 幸子

 壮絶にも、また力強い賀状である。それは「生きる」という言葉に表されている。抗癌剤の是非は専門医師の間でも問題になっているが、患者の心の持ちようが大切だ。

生くること飽くることなし初明り     松尾 謙三

 要するにこの句は「生に飽きない」精神を籠めている。上五「生くること」、中七の五文字「飽くること」と調べよく流れ、「初明り」で収めて、新春の決意が詠まれた。

    2013年1月号より
フィナーレは人ピラミッド秋の天   福田知津子

  団体の体操でフィナーレが人ピラミッドで決る光景は見ていてまことに心地よい。下五が「秋の天」とあるから屋外だろう。晴天の秋空のもと女性の姿が眼に映る。

色づけば山肌温しみかん山      中澤 幸子

 山肌の色づくのが紅葉でなく、蜜柑である。そして「山肌温し」と詠んだ。日が当たって温いこともあろうが、みかん色に温みを感じたところ、巧く詠んでいる。

湖北路や棚田を区切る草もみじ    白杉みすき

 琵琶湖北岸、伊吹山地をはじめとする山々にある棚田の景であろう。今、その棚田を区切る畦が草もみじしている。中七、下五と調べよく、美しい景色が浮かぶ。

    2012年11月号より

迎へ火や倅は二十一のまゝ        児島 二介

 今年も盂蘭盆会の迎え火を焚く夕べとなった。精霊は二十一歳で亡くなられた息子さんのことであろうか。「倅は二十一まゝ」という言葉は痛切に響く。

長崎忌小さなバッタ生まれけり      杉本 文子

 昭和二十年(一九四五)八月九日、広島に次いで長崎に原爆投下。「小さなバッタ」の誕生に託して、生命の存続の象徴を詠んだようだ。

新涼に風の結び目ほどけゆく       南  洋子

 「風の結び目」がほどけてゆくという表現が独特である。新涼になって、今まで暑さに滞っていた風がほぐれて快く肌を吹くようになったと解した。

    2012年9月号より

生きるとは昨日のつづき簾吊る      石橋 玲子

 季節の変わるに従って、それに応じて日常生活にも対処してゆかねばならぬことが起る。簾を吊ることもその一つ。淡々とした心境が上五中七に詠まれている。

室生寺の塔したたかに夏の雨       米田 一子

法隆寺の塔に次ぐ古い塔で、近くは平成十年九月の台風七号で倒れた杉の直撃で大被害を受け、修理された。まさに夏の雨に立つ「したたか」な塔を詠んだ。

夜濯ぎの苦学生居る百万遍        吐山 成人

 百万遍あたりの学生生活を詠んだのだろう。今の学生はたいてい好んでアルバイトでやりくりしているのだろうが、「夜濯ぎの苦学生」というと昔懐かしく響く。

    2012年7月号より

鹿の子の目のつややかに生まれけり    袋井 貞子

 生まれたばかりの鹿の子の目。その「目のつややか」さに着眼して、よろけながらも生後のいきいきした鹿の子の様子を彷彿させる。

いつの世も子は宝なり子供の日      中澤 幸子

 この句に詠まれているような世でありたいが、そうでもない昨今の世のなかであればこそ、改めてこの句の価値を認めなければならない。

水晶体入れ替へ夏が新鮮に        松尾 謙三

 老人性白内障の手術(最近では眼内レンズ挿入手術が多く、嚢外摘出術が主)の結果、良く見えるようになり、それを「夏が新鮮に」と感じて詠んだところが俳諧。

    2012年5月号より

蹲踞に浮かぶ椿や門跡寺         大本みつ子

 いずこの門跡寺であろうか。ともかくそのお寺の蹲踞に落ち椿が浮いていた。門跡寺と云い、蹲踞と云い、椿と云うと、一幅の書画となる。

手袋を脱いで握手に事了へる       平田 淑子

 無事に事を終えた喜びが、「手袋を脱いで握手に」という具体的表現によって伝わる。何事を終えたかは読者の想像に任せてある。云いおわせないのも俳句の妙である。

湯豆腐や熱さを廻す口の中        松尾 謙三

 「熱さを廻す」が面白い表現である。よく経験する仕草をうまく詠んだ。湯豆腐のほかに、熱燗、海鼠腸の句も見られ、お酒好きの方と見受けた。

     2012年3月号
 休 止
     2012年1月号より

柿落葉移ろふ色を集めけり        堀 喜美子

 落葉一枚でも、柿のそれは美しい。最近「ひと葉とて絵になるやうな柿落葉」と詠んだが、比較して「移ろふ色を集め」のほうが一段とすぐれている。

生と死は掌のうらおもて鳥渡る      石橋 玲子

 鳥渡る季節。鳥は本能に従って毎年渡りを繰り返していると人は考える。しかし人は生死について思考する。その生死が「掌のうらおもて」とたとえる意味は深い。

カエサルの轍の跡か秋ローマ       児島 二介

 「カエサルの轍の跡」はまた「シーザーも征きし道」とも詠まれ、ローマの歴史を物語る。ローマへの秋の旅は日本とは異なった旅情をなぐさめられたことだろう。

     2011年11月号より

遠来の友待つ駅に赤とんぼ        石橋 玲子

 今かいまかと駅に待つ「遠来の友」。身ほとりに赤とんぼが飛んで、待つ人の心をときめかすようだ。

千の風吹けば寂しき曼珠沙華       平田 淑子

 華やかに見える曼珠沙華だが、また彼岸花などといわれると寂しさもある。「千の風」は一層寂しさを募らせる。

外出を許されて識る秋の風         山下 昭美

 私信によれば入院されていた由。その間、外出を許されて秋風に触れたことを「識る」と詠んだところが巧い。

     2011年09月号より
空と海そのあはひより夏来たる     石橋 玲子

 夏がどこから来たか。それは空と海の間(あわい)から来た。平明にして余韻のある句である。
青洲の妻の覚悟や花ダチュラ     中澤 幸子

 ダチュラの花の学名はチョウセンアサガオ(Daturametel L.)。漢名曼荼羅草。青洲の妻を讃えた好句である。
きのふより青の深まる青田波      宮坂三智子

 日に日に青田の彩が深まってゆく。波打つ青田の光景が読者の目にもありありと浮かぶ。調べもよい。
     2011年07月号より

巣立ち行く最後の部活四股を踏む     米田 一子

 巣立ちとあるから、社会へとすれば大学の相撲部の部活を想像する。「四股を踏む」に名残と希望が感じられる。

みちのくの瓦礫の彼方鯉のぼり      藪上 正子

 東日本大震災を「みちのくの瓦礫」と端的に表現し、その彼方の「鯉のぼり」に罹災者への励ましを詠んだ。

土買うて八十八夜待つばかり       白杉みすき

 八十八夜は小学唱歌「茶摘」でなじみだが、この日は農家にとって種蒔の目安ともいう。「土買うて」が適う。

     2011年05月号より

浦晴れて潮の頃合ひ海苔を掻く      平田 淑子

 海苔掻きには潮のさしぐあいとか波を読むとかがかかわる。晴れて潮の頃合いもよく海苔掻きの条件が調った。

若鮎の飴だき母のおはこなる       宮坂三智子

 母のおはこ(十八番)の若鮎の飴だき(飴煮とも)に母をいとおしみ、なつかしむ情がよく詠まれている。

寒椿真潮の風をまとひつつ        市岡まさ子

  真潮の風を受けて咲く寒椿の情景がよく詠まれている。「真潮の風をまとひつつ」の調べがとてもよい。
    2011年03月号より
お年玉長幼の差をさりげなく       平野 敏子
  子供らが長ずるにつれて、お年玉に差をつけるようになる。 それを「さり げなく」と詠んだところが上手い。
彼の人の鬼の霍乱風邪をひく       黒川佐規子
 あの健康な人でも、やっぱり風邪を引くことがあるのかと、ちょっと安心したような心理も窺える。
失恋を語らふ友や燗熱く         山下 昭美
  熱燗の酔いで饒舌の友が、過ぎ去った失恋をくだくだ語っている。聞く方はう  んざりするのではないだろうか。
手に触るる松の痛さも淑気かな      工原千賀子
  松飾の松であろう。手に触れた松葉の痛みをも淑気と感じたとは、満ちている 新春の気分をよく表現している。
はるかなるローマ史積みて秋思かな    児島 二介
  ギボンのローマ史六巻だろうか。ローマ帝国の衰亡を読むにつけても、いろいろと思われて秋思と重なる感懐。
   2011年01月号より

菊人形龍馬背ナより水もらふ     平田 淑子

 今また話題の龍馬、その菊人形が背中から水を補給してもらっている。ユーモアのある句。

鬼の子の風に吹かるる軽さかな   平野 敏子

 枝に軽々と吹かれる蓑虫も、「鬼の子」と云われると、またおもむきが変わって可愛らしいから不思議。

エプロンの姿なつかし赤い羽根    山下 昭美

 赤い羽根の街頭募金も近頃はあまりみかけなくなってきたようだ。往時のエプロン姿が想い出される。

濃き色をぽつんとひとつ秋桜     児島 二介

 コスモスは普通群れ咲く情景が詠まれる。しかしこの句は、その中に濃い色の一つを鮮やかに選び出した。

したたかに年を重ねてむかご飯    堀 喜美子

  むかご飯は歳時記に「素朴で野趣豊かな味」(河野南畦)と出ている。したたかに年を重ねての感懐であろうか。
   2010年11月号より

カウベルの響くや夏野果てしなく    平野 敏子

 スイス紀行の十句中の一句。カウベルの響きに夏野の広がっている光景。「果てしなく」に余韻がある。

コスモスを花束にして見舞ふかな    中澤 幸子

 「コスモスを花束にして」が軽快でよい。「見舞ふかな」のように、「かな」が用言につくと軽く即興的という。

今年米めがねかけ替へ水加減     山下 昭美

 新米を炊くときは、水加減を多くするとのこと。それで、慎重に眼鏡をかけて水加減を見た。着眼点がよい。

里山の田の面こがねに威し銃      平田 淑子

 こがね色に実った里山の田の面に威し銃が響く、情趣ある光景。「田の
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」は万葉集にも使われている。

今生に白眉いただく敬老日       市岡まさ子

 この世に生きて、長寿のしるしの白眉をいただくとは有り難いことだという感懐がこもっている。調べもよい。

   2010年9月号より

掛軸に踊る風あり夏座敷         市岡まさ子

 夏座敷を風通し良くしている。その風の様を「掛軸に踊る」と、具体的に示したところが眼目。涼風の通う座敷を彷彿させる。

呑むまいと決めても許す湯引き鱧     工原建太郎

  医師に飲酒を禁じられているのか。それでも、肴が鱧の湯引きとあっては「呑むまいと決め」た酒にもつい自分に許してしまう。微笑ましい句である。

馬鈴薯に顔といふものありにけり     吐山 成人

 そう言われればそうである。小学校時代に「じゃがいも」というあだ名の先生が担任だった想い出がある。「じゃがいもてふニックネームの懐かしき 俊一」

生きざまを我が身に問はん半夏生  戸上みつ子

 半夏生は夏至から十一日目、陽歴七月二日頃にあたる。歳時記にいろいろと謂れが記載されている。この日に我が身の生きざまを反省しようという感懐の句である。

黒日傘黒手袋の美人かな      松尾 謙三

或る句会で「ひきつづき黒を又着て更衣 桂子」「黒はもう着たくない色更衣 ひろ」という句が出たが、この句は日傘と手袋が黒という美人に興味を惹かれた。
   2010年7月号より

藤棚に差し延べた手も房となる      山下 昭美

 幻想的な句である。藤棚の下で藤の房に手を差し延べた手があたかも藤の房のようになった。差し延べた手の持ち主は藤の精でもあろうか。

栴檀の花をこぼして狐雨         工原千賀子

 「狐雨」という言葉は余り使われないが、栴檀の花をこぼして降る日照り雨の趣がよく詠まれている。原句「こぼせる」を「こぼし」と連用形にして切れを入れてみた。

緑立つ禅林の屋根弛びなし        林 ちぐさ

 禅林の松は折から新芽を出して、「若緑」の候である。その松の緑の中に見える堂宇の屋根を、「弛びなし」と云いきって収めたところ、禅寺の厳しい雰囲気が窺える。

大寺の小道明るき穀雨かな        平野 敏子

 穀雨は二十四気の一つで、雨が百穀を潤し芽を出させる意。今年は四月二十日、穀雨の日に相国寺を吟行した。その時の句かも。穀雨の日の雰囲気がよく出ている。

母の日や風樹の嘆の言葉知る       南  洋子

 「風樹の嘆」(樹静かならんと欲すれども風止まず、子養わんと欲すれども親待たざる也)という詩の言葉を母の日に知ったという。原句「母の日に」を詠嘆に改めた。

  2010年5月号より

大川のかもめ群れ飛ぶ雨水晴       工原千賀子

「雨水」は二十四節気の一つで、陽暦では二月十八日ごろ。
晴れた「雨水」の日に「大川のかもめ群れ飛ぶ」景を詠んだ好句である。


腰痛のすこしましかも水温む       黒川佐規子

 高齢化の時代、腰痛になやむ人口は増えて、整形外科はおおはやり。「すこしましかも」と口語的な言葉を用いて、「水温む」と照応している。


波打って光が走る麦青し         宮坂三智子

 青々とした春の麦が風に吹かれて波打っているさまを、「光りが走る」と捉えた。別の季題「風光る」が青麦という具象に投影されている。

みどり児の初ねがへりや春立つ日     藪上 正子

 嬰児の初めての寝返りを「初ねがへり」と詠んだところが微笑ましい。それが、立春の日であったとは、偶然としてもおめでたいことだ。


流し雛加太の浜より旅立てり       米田 一子

 雛流しの句には哀愁を催させる表現が少なくないが、この句は「旅立てり」と能動的に詠んで、しかも情感があふれる。「加太の浜」という固有名詞も効いている。

  2010年3月号より
    檣頭の灯のゆらめきて年新た       工原千賀子

新年の港の光景であろう。船のマストの先端に灯る灯の揺らめきを詠んで、いかにも新年らしい、希望に満ちた感じを引き起こす。「年新た」と結んだところがよい。

    学生を終ふるまではとお年玉       山下 昭美

 幼いときからのお年玉。それは大学生になっても続いている。無事に卒業して社会人になるまでは続けようという親心である。

    尖り声見ぬ振りをして年用意       藪上 正子

 年用意はあれこれとすることが多く、つい身内のあいだでも、声が尖って腹立たしい態度が出る。そんなことは見ぬ振りでやり過ごそう。前句はよいお手本だ。

    帰省子の夜具をどっさり年用意      杉本 文子

 これも年用意の句。冬休みを実家で迎える帰省子のために、夜具を「どっさり」準備しなければならない。これも嬉しい親心である。

    鯉が水跳ね短日の日を揺らす       平野 敏子

 「短日の日」の日は池の面の日の光であろう。鯉が跳ねて、その日の光を揺らしたことと、短日を結びつけたことに詠者の感性の深さがうかがえる。

     2010年1月号より
     古本屋ほろりと愛し鰯雲  浅野宣子

 詠者にとって、古本屋がなんとなく愛しく感じられるのだろう。「ほろりと愛し」に、古書店と云わず、古本屋に対する愛着の心持が伝わる。一転、空の鰯雲へ眼を転じて、自然へと情景が広がった。詩情のある句である。
     甘南備の風にきらめく鳥威し  工原千賀子

 「甘南備(かんなび)」は知る人ぞ知る山の名であろうか。調べると、「甘南備山」は京都府南西端と大阪府枚方市との境にある山という。この山から吹く風に鳥威しがきらめいているという光景を詠んだ好句である。
     飛ぶ虫の来て色増せり石蕗の花  里久美智子

 何の虫とも言っていないが、石蕗の花に虫が飛んできて、石蕗の花の色が増したとも、また虫も色が映えたとも、両者あい俟って色が輝いたようにも感じられる。「飛ぶ虫」と詠んだところに詩情がある。
      みみせせに一撃くれて北風馳する  戸上みつ子

 「みみせせ」は評者に聞きなれない言葉なので、調べると「耳の後にある小高い部分」、漢字で「完骨」とある。これで「みみせせに一撃くれて」馳せるように北風が吹き去ったところを巧みに詠んだことが理解された。
      嵯峨野路の雨の底冷え殊の外  平野 敏子

 冬雨の日の嵯峨野路吟行の句であろう。俳句では晴れの日ばかりがよいということなく、雨の日もまたそれなりに興趣がある。「雨の底冷え」が「殊の外」であったことが句になった。中七下五が調べよく詠まれている。
     2009年11月号より   
      酔芙蓉酔極まりし僧の留守  工原千賀子

 お寺に植えられている酔芙蓉、それが今し酔いが極まったように赤くなった。「葷酒山門に入るを許さず」の標記が禅寺などにあるが、坊さんの留守に酔っ払ってしまった人がいるようで、ユーモアのある句である。
      生も死も一字露の世友逝けり  里久美智子

 まことに「生も死も一字」である。「修証義」のなかの「生死の中に仏あれば生死なし」という言葉が浮ぶ。「露」は「露の世」のように比喩的にも用いられ、一茶に「露の世は露の世ながらさりながら」がある。
       堂内の吊提灯に律の風  林 ちぐさ

 「律リチ」は「呂リョ」とともに音の調子をあらわす語。「律の風」とは「秋らしい感じの風」を言う。今回初めて知った季題である。大歳時記三種にも例句は出ていない。ともかく、意味を知れば、掲句は好句と首肯される。
       九十九と呵呵大笑や生身魂  石橋 玲子

 わが国では最近寿命が延びて、センテナリアン(百寿者)が昨年の時点で三万六千人余を数える。この人は白寿で、「呵呵大笑」すると言うから元気な方であろう。ちなみに子規は「生身魂七十と申し達者なり」と詠んでいる。
        露地深く残る日ざしや秋の暮  白杉みすき

 秋の日差しは空気が乾燥しているので案外強く、思わぬ日焼けをするくらいである。それでも暮れ方は慌しい。秋の暮に短い時間であるが、日差しが露地深く射し込んで残っているところを鋭く捉えている。

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